昭和五十六年一月十一日 朝の御理解
御理解信心乃心得
「真にありがたしと思う心 すぐにみかげのはじめなり」
真に有難いと思う心というものを真と書いてありますね。しんからまんからという心ではなくて、真との喜び真に有難たしというのを真に有難いと御教えにありますね。
だから、その真という事が実は真にかわりはないけれども、それこそ歌の文句じゃないですけれどもね。「富士のお山に降る雪も京都凡斗町に降る雪も、雪にかわりはないけれど」という歌がありますね。雪にかわりはないのです。
けれども気高いとか清浄とかというと、やはり富士のお山に降る雪だという事になるでしょうが。雪にかわりはないのです。けども凡斗町に降る雪というならば、富士のお山に降る雪とは雪にかわりはないけれども、清浄であるとか気高いとかいう事に於いて違うのであります。真に有難いというのもそうなんです。
子供が感ずる真に有難い。大人が感ずる真に有難い。信心の浅い人、深い人が感ずる真に有難いという有難いにかわりはないけれども、その内容が違う。だから結局真に有難いという、いよいよそれこそ富士のお山に降るような気高い清浄なそういう真(しん)いわゆる真(まこと)を求めて信心をさせて頂くのが信心。
合楽理念が完璧の城には入ったと、いわゆる本当の人間の助かりという事に於いて、もう完璧。しかも完璧という事は、いよいよ限りがない。完璧の城には入ったのである。限りがない。真から真。言うならば追求していく限りない信心の精進がそこからなされてゆく。いうならば心の状態も大変な相違が生まれてくる訳であります。合楽理念は絶えずいつもそこのところを目指しておるのです。
今日、私、御神前で一番始めに頂いたのが、今、ちょうど、あの昨日、お月次祭にお供えがしてありました。ちょうど真中に大きなあれは、あの二升か三升かは入るでしょうね、薦被り(こもかぶり)のお酒がお供えしてあります。あれは金光の藤井家からお供えになったもんです。
いわゆる教祖の神様、いわゆる古川の、古川この様という古川の、この様のお姉さんにあたられる教祖の神様の娘さんです、藤井家。しかし、段々有難い事になってきたですね。あちらもいろんなお願いがあるんです。いろんなお伺いがあるんです。そして今度宮田先生がみえる時に合楽の金光様にお供えをしてくれというて、ことづかって来ておられるのが、今度の月次祭にお供えしてあった。
それがね、銘柄が「真賀」とあります。真の賀び(まことのよろこび)。真という字と賀正の賀ですね。真賀、真の喜び、それを頂くんです。有難き、勿体なき、恐れ多きというお神酒の銘柄が真賀。今日の御理解がちょうどここなんですからね。真に有難しと思う心、真に霊験のはじめと。真賀。だから皆さんが今有難いと思うておられる有難い、それはおかげに直結するならばそれでよいのです。けれども、何時まであってはならんのです。
もっと本当の真賀、喜びが頂ける信心を精進させてもらう所から、もっと素晴らしいおかげがそれに伴のうてくるんです。金光様の御信心はここん所ではっきりしてくるんですよ。おかげが伴うのですから。
ですから、絶えずやはり修業が、昨夜の御理解じゃないですけれども求められる訳です。だから、よりよい気高いとか貴いとか、それこそ凡斗町に降る雪も、いうなら富士のお山に降る雪も違いはないけれども、段々高度な雪であり、高度な喜びにお互いなっていかなきゃならない。
そしたら、又神様からお知らせ頂いたのが、もと草野の祇園さんで正月にあっておりました「うそ替え」というのがありました。この木でね「うそ」を作ってあるんです。それを替えましょう替えましょうと言うて、夜に若衆達が、そしてそれを本当のよりよいうそに替えていくとかそういう行事なんです。太宰府さんなんかでもあるでしょうね、あのうそ替えというのが。だから、うそからうそを替えて行くのじゃなくて、より本当のよりよいうそに替えて行くというのです。
親鸞上人様が、もう晩年の頃になって遺しておられる言葉の中に、何十年間いわゆる仏教、いうなら真から真を追求していかれて、そしていよいよ晩年になって、まあ大きな悟りを開かれる。それは、自分が今まで過去に言うてきた事はみんな空言(そらごと)とおっしゃておられますね。うそだったと。そして最後には「真ある事なし」と言うておられます。この世の中には真というのはないのだと。なら、ないからというてほっといてよいというのじゃない。それこそ、うそからうそを替えていくに従って、より真より本当な事を追求して、そしてぎりぎりに極めに極めた所に、この世に真ある事なしという事になる。
まあ仏教で親鸞上人様の教えをいうと、そういう事になりますけれども、なら金光様の信心はそうではないのです。いわゆる真から真を追求していくのです。うそからうそではなくてね。だから、それを返せば嘘という事になりますけれども、金光様の御信心の真というのは必ずそれなりのおかげが伴うという事なんです。真からよりよい真を追求して分からして頂いたら、いわゆる悟りの境地がもう一段と開けていったらそれだけおかげも偉大になるし、広く大きくなっていくし、それこそ凡斗町に降る雪、雪はかわりはないけれども富士の山に降るような積もるような雪が頂かれたり感じられたりするという事なんです。
信心はこういう所をね、私は極めていかなきゃ信心の本当の真賀には触れられないと思うです。はあ金光様ちゃ有難か、御取次頂いておかげを頂いた、おかげを落としたと言っておるだけではね、それこそあの世に持っていくものはないです。
昨日、研修の時でしたけれど、中村先生が話しておられましたが、先日まあやっぱそれぞれファンがありますから、あそこは子供が皆集まるそうですね。それに新田原のあれは良一君というて神様からお知らせを頂く子供がおりましょう。あの子供が、先生これはお祝いに僕が書いたというて色紙に宝船を書いて持って来てくれた。ちょうど恵城が遊びに行っとったそうです。たら、僕もそれに何か書きたいと言ったそうです。なら、それこそ恵城先生書いて下さいと言うてから、先生が筆を出してやったんでしょう。そしたら、それに徳と書いたそうです。そんな字を知っとるはずとも思われないですけれども。やっぱお徳お徳というから徳という字がいつも目立つから、まあ暗記しとったつでしょうね。
宝船の色紙に徳と書いた。まあいうならば賛を書いた訳。そん時は、「ほおう」ち、笑って聞いとったけど、段々それを考えさせて頂きよったら、いかに宝船というても徳の伴うた宝船でなからねば、なければ例えばどんな家蔵財産があるといっても、徳の伴わない家蔵財産なら必ずそれは弊害が伴います。子供が出来そこないます。病人が絶えません。
それこそ教祖の御教えじゃないですけれども、徳がないと身代をみたしてしもうて大事な者が死んでしまうというような御教えがありますようにね、かえって残したその宝がかえって宝ではない。災いの元になるような結果が生まれてくるのです。
そこでです、あの金光教でいうお徳を受けるという事が先ず先決だと、お徳に伴うてくる人間の幸せの条件の全てでなからなければならない。しかも小さいよりも段々大きくなっていかなければならない。それにはお徳を受けていく以外にはない。神様の御信用を頂いていく。その御信用、神様のいうなら裏付けのある所の家蔵財産宝じゃなからにゃならんという事になるんです。
為には、いよいよ私どもが本当から本当を求めていく姿勢を作らねばいけません。まあ極めに極めて哲学的に極めてゆく人もあります。けれども、これにはね、絶対と言うてよい程おかげが伴いませんです。頭で極めていった信心では、素晴らしいです。その言葉とか表現は哲学的ですから。
そんなら今日、私が頂きます事も、これは合楽の哲学でしょうね。「うそ替え」とか「真賀」とかいう、そのお知らせの内容を探ってみると結局合楽で哲学する。
昨日、或る看護婦、婦長をしとられる方が患者に御神米を頂かれる。もう難しいというのが助かる。眠られん食べられんという人が食べられるようになったり眠られたりする。ところが院長さんが、その婦長さんを呼び付けてから、こういう非科学的な事をしてもらっちゃでけん。婦長でも、婦長である、あんたがこういう事をするならでけんと言うてお叱りを頂いたというお届けが昨夜お月次祭にありました。
本当に非科学的でしょうか。私は超科学だと思うです。合楽の場合は、必ず超が付いている。常識という超常識。非常識じゃあない超常識。それが今日皆さんに聞いて頂いておる事がいうならば超常識のお話、合楽理念を簡単に一言で言うならば人情教から神情教を説くのが合楽理念だと。だから、その神情という真の情、又は神の情というようなその情の中には、そりゃいくらなんでも非常識とか、そりゃ道徳的ではないとかというような所があるんです。でもよくよく見てみると超道徳的であったり、超常識であるのです。だから必ずおかげが伴うのは、それこそ超がつくようなおかげになってくるです。
もう本当に昨日、矢継早にビリグイ、マットグロッソあちらからの手紙が沢山書いて、もうそれこそ紙面全部が本当に超がつくようなおかげばっかりです。びっくっりするような。若先生がここに手紙を持って来た時に申しましたが、本当にもう身が震うような手紙が来とりますと言うて手紙を持って来て、昨日読んでもらいましたがね。
合楽の場合は、そういうような、なら海外布教は合楽理念をもってするより他にはないなんかというのは、こりゃもう超のつくお話なんです。
公子先生が手紙を長々と書いてきとります中に、先だってから先生がマットグロッソの方のお祭りを仕えておる間に市長さんがお参りになった。ところが、その何をお届けしておるのやら分からなかったら、ちょうど信太郎が帰って来た。六歳。信太郎が通訳した。そりゃもう日本語とブラジル語を見事に使い分けて、あの、お父さんが帰ってみえたら市役所に来て下さいち言うて市長さんがみえてるとじゃったげな。公子先生は分からん。
あそこの子供は玉子御飯がここに居る時から大変好きでした。ところが、その玉子御飯を炊いてくれち言う。あんた達に炊いてあげる分なよかばってん、明日の御神飯炊く、御神飯のお米がこがしこしかなかけんで、でけん。どうして親先生にお願いせんかち言うたげな。ほんなこつのち言うてお願いしたら晩には沢山お米を頂いたちいう内容の事が書いてございました。本当に超がつくようなお話ばかりなんです。
合楽理念をいうならば一言でいうならば、人情を使わない。合楽の信心は、神情一本でいくから人から悪口を言われたり、みょうな目で見られたりするような場合もあるけれども、神様だけが認めて下さるところのおかげですから超がつようなおかげになってくるんだと、今日私が頂きました。
真賀という、あのお神酒のお知らせ、次にうそ替えのお知らせ。うそからうそじゃなくて、うそからより本当な事へ替えていく生き方というものが身に付いてこなければならない。そういう勉強が出来ていくから合楽の信心は楽しゅうて愉快になってくるんです。いうならば学者が眼鏡を掛けて、それこそ年をとっても本を読むように楽しい嬉しい有難いものになってくるんです。
そして、ただなら教学的にというか哲学的に分かっていく楽しさというもんじゃなくてね、合楽でより本当の事が分かったら、より本当なおかげが=(イクオール)おかげという事になってくるから素晴らしいのです。
だから、いうならば間違い。いうなら親鸞上人様じゃないですけれども、自分の言ってきた事はみんな嘘であった。この世の中には真ある事なしというような事ではなくて、いつの場合であっても本当なんだけれども、より本当を求めて私どもが生涯信心に打ち込んで、だからより本当なおかげ。どんなに宝船を頂いても、それに徳が伴うておらなければならない。その徳が、昨日は、今言うその宝船を、その中村先生に賜ったという良一君のお母さんが、親先生に何か書いてもらってくれというて色紙をことづけておる。
昨日、もう忙しい時、あの月次祭の前でしたから、それでもう色紙を出しましたから、まあすぐ頂いた事が真徳(まことのとく)と頂きました。
真徳(しんとく)。まあだ小学校の、こうまい子供に真の徳なんてん言うてやったって分からないけれども、なら現在子供ながらも、いろいろお知らせ頂いたりする。その徳が決して本当なもんじゃない。嘘じゃないけれども本当なものじゃないんだぞと。あんたがお知らせ頂くからというて、それで慢心するような事があっちゃならん。本当な徳はまあだ奥の奥にあるんだぞと。真の徳を目指さねばいけないぞというようなものを感じましたですね。
私は結局真の徳を目指す為に、真の喜びをいよいよ目指さねばならない。為に、私どもの人情をそれこそふり捨てて、神情一本に生きていけれる手立て、真に有難いと思う心がすぐに霊験のはじめ。 だから、いうならばお参りをして来て、初めて参って来た人でも、はあなる程とか有難いとか思うたら、もうおかげにつながっておるのである。それはそれでよいのではない。限りなくその真に有難いというものが成長していかなければならない。
いよいよ真に有難いという、その心を大きく広くもつと、より本当な真に有難しを追求するというか求め乍らの信心。そして、私は必ずおかげが伴う真でなければ駄目。どんなにこれが本当だと、どんなに、なら科学的にとか教学的にとか哲学的にとかいうて、それを極めて、いつもそれには、もう絶対というてよい程おかげが伴いませんです。
だから、おうとるかおうてないか、本当か本当でないかという事は、おかげが伴うていくなら、それは本当です。はあ、程度が低い、低級だと言うても、おかげが伴うなら本当です。というて、それが絶対の本当ではない。より本当がまだあるんだ。そのより本当を求めてゆく手立てが合楽理念では、又限りなく極められていく訳ですから、皆さんも、それに伴うてゆく信心をね、追求していかなきゃならんというふうに思います。どうぞ。